仏さま

御本尊 薬師如来

 天台宗では、その寺の本尊として薬師如来像が安置されていることが比較的多いですが、雙林寺も例外ではありません。堂々とした一木造りの等身薬師座像を本尊としておまつりしています。材は、榧材一木造り。

 頭、体部分を一材で彫り出し、膝前は横一材接いであります。腹部や腰部にも小さな材を接いであります。また、肉身部には漆箔が施されてあります。また、着衣部には彩色が施されていますが、ほとんどわかりにくくなっています。

 肉髻(にくけい)部は大きく、しかも高く造られているのが特徴です。螺髪(らはつ)のひとつひとつは先端が尖り、しかも数多く細かい刻みがはいっています。眉は円弧を描き鋭く鎬立たせています。

 目は伏目で、鼻筋が長く、あごは短く小さく造られています。面貌は丸顔でその頬の張りは強く、両耳は長く大きいです。肩の張りも大きく厚みに富んでいます。胸板から腰部への厚みも十分にあって実に安定感が強く感じられるお姿です。
 乳部や腹部にみるくくりは深く、着衣の衣文の彫り方は抑揚があって力強くなっています。膝前の高さと膝張りの大きいことは量感に富んだどっしりとした体貌を印象づけます。右ひじ、両手先、持ち物などは別造りして矧いであります。

 寺伝によると、この薬師如来さまは今から約1200年前、当寺開創といわれる伝教大師によって造られたとされています。国の重要文化財に指定されています。

 

◇御真言◇ おん。ころころ。せんだり。まとうぎ。そわか。

 

こちらの書籍にも掲載されています⇒ 愛と苦悩の古仏


眞葛が原聖天

 抑々当山に安置する歓喜尊天は文化元年(1804年)聖天行者の祐岳上人が来寺された際「この地は諸天擁護の霊地であるゆえ、私が念ずる聖天を安置すれば、洛中洛外の人は大利益を受け、永久不滅の霊地になるであろう」と仰せられ安置されたものです。

 

 その後時代が下る中、聖天信仰を持つ人々の熱意はいよいよ高まり、ついに昭和42年、関西地方最大の聖天霊場である生駒山からも聖天さまの降臨をお招きいたしました。

 

 生駒山宝山寺住職の中でも名僧と名高い松本實道大阿闍梨によりご勧請され、生駒山の正式な御分身としてこの地に顕されました。

 

以来、真葛ケ原聖天の霊場として、そのあらたかな霊験は光り輝いております。


武装した大黒さん

大黒天は公開しておりません
大黒天は公開しておりません

 右手に小槌、左手に袋を持って肩にかけ、米俵をふんだ福徳円満な福の神さん-これが大黒さんのトレード・マークだ。ところが左手に宝剣、右手に袋を持ち、鎧をつけて「半跏倚坐」といわれる待機の姿勢をした、ものものしい大黒さん木像がある。京都の円山公園音楽堂裏にある双林寺の大黒さんだ。軍隊をもたないはずなのに「自衛隊」という立派な軍隊をもつこの国に、武装した大黒さんがいても不思議はない、なんて皮肉るのはやめましょう。実は大黒さんは本来が武装していたもの。これが長い民間信仰の間に、いつのまにか”武装解除”されたものなのだ。
 
 大黒さんは本名を摩訶迦羅(マハカラ)といい、密教によると大日如来が茶吉尼という悪魔を征伐するために作った戦闘神だった。だから大黒さんはドクロを首にかけ、すさまじい表情の神様として、古来インドで信仰されて来た。これが時代を経るにつれ、その武装がいろいろ姿を変え始めた。三世最勝心明王経というお経では、一頭二臂(頭が一つ、手が二つ)、慧琳音義では一頭八臂、胎蔵界曼荼羅では、三面三目六臂(頭が三つ、目が三つ、手が六つ)という具合だった。ところが、これがさらに日本にはいって変わったらしく、武装ぶりが少々あやしくなって来た。比叡山には顔が三つの三面大黒があるが、曼荼羅の三面大黒とは大違い。顔は正面が大黒、右面が毘沙門天、左面が弁才天で、六本の手には、袋、槌、宝珠、宝剣などいろいろなものを持ち、おまけに米俵をふんまえている。つまり現在の大黒さんと三面六臂大黒との中間をいくものだ。

 大黒さんが剣を小槌に持ちかえて七福神の仲間にはいり、本格的な平和主義に徹するのは、世も太平な元禄時代だ。元禄元年(1688年)貝原好古という人が編纂した「和爾雅」という本には、七福神の中に大黒さんの名は見当たらないが、元禄十一年(1698年)摩訶阿頼耶という人が書いた「日本七福神伝」には、大黒さんが顔を出している。つまり民間信仰の対象として選ばれた七福神に大黒さんも放り込まれ、いつのまにか恵比寿さんの親類のようなめでたい神様となってしまった。


 こうしたおめでたい子孫をへいげいするように、双林寺の大黒さんは大国主命スタイルの上に武装したまま、ドッカと座り続けている。この大黒さんは像姿から藤原末期のものと思われるが、花をもとめて円山公園を訪れる人々は、大黒さんはおろか、堂一つ、庫裏一つの小さな寺の存在にも目もくれようとしない。音楽堂からわずかの立木でへだてられているこの寺は、平安時代に最澄によって建てられ、のち秀吉がここで花見をしたこともあるが、今は花見客のさんざめきだけが、立木を通して聞こえてくる。
(昭和34年4月15日大阪日日新聞掲載文)