西行法師ゆかりの「花月庵」

雙林寺 花月庵
雙林寺 花月庵

 西行法師(1118~1190)は、平安末期から鎌倉初期の歌僧で、俗名を「佐藤義清(さとうのりきよ)」といいます。もともと武士の子供で鳥羽上皇に仕えていた北面の武士でしたが、23歳の時、突然出家しました。当然のことながら、妻子や武士としての名誉や出世なども捨て去ってしまい、修行の身となるわけです。

 

「世の中を捨てて捨て得ぬ心地して都離れぬ我が身なり」


 26歳の時から京都を離れ全国を行脚し始めます。陸奥(みちのく)平泉へ歌枕を訪ねる旅、それから数年の後、高野山に入り、以後30年ほどは、高野山を拠点に諸国を遍歴します。
 また、吉野や熊野にも訪れ、中国・四国を旅し、源平戦乱の時期は伊勢に疎開し、1186年には再び陸奥へ行きます。各地で数々の歌を詠みました。

 その間、歌を詠むことは、心の支えや、悟りに至る手段になりました。その数はざっと2000首あまりです。なかでも約1500首を収めた歌集「山家集」は有名です。ひとつの寺にとどまることなく、弟子を育てることもなく歌僧として、その生涯を閉じました。

 雙林寺へは出家の翌年、永治元年(1141)から、塔頭である「蔡華園院」に止住していたようです。「山家集」(上、冬歌)には、次の一首があります。

 

  野辺寒草といふことを雙林寺にてよみにける
「さまざまに 花咲きけりと見し野辺の 同じ色にも霜枯れにけり」

 

  また、有名な「山家集」(上、春歌)にある
「願わくば 花の下にて春死なん その如月の望月の頃」

 

 この歌は、いつごろどこで詠まれたのかは、わかりませんが、安永九(1780)年に刊行された都名所図会には、此所で入寂し給うなりとの記載がありますので、庵をむすび修行に明け暮れ、この庵前の桜や草木のもとで詠まれたのではないかとも言われています。
  文治6年(1190)2月16日、その歌の通り、桜満開の時に没しました。大阪河内弘川寺に墓があります。

花洛名勝図会より
花洛名勝図会より

 この建物のもとは、天正時代に雙林寺塔頭「蔡華園院」の跡地に建立され、享保21年(1731)に、摂津池田李孟寺の天津禅師(?~1739)により、現在の地に移築再興されました。

 その後、明和7年(1770)、冷泉為村が建物を修繕し、西行法師像を納める厨子を寄進しました。厨子の扉には、為村自作の歌が記されています。

 

「二もとの言葉のかげに名に高さ正しき風を代々に残して」

「花は根にかへりし後の影古りて見ぬ世を偲ぶ三月二月」

 

 寺に残る古い境内図には、現在のよ志のやさん東側あたりに「蔡華院」との記載があるので、もともとはその地に建物があったものと思われます。

 庵中央には、為村筆の「花月庵」と書いてある横額が掲げてあります。西行は花と月を詠んだ句が多いことから為村がそのように命名したようです。

 庵の前に「宮城野の萩」を移植しました。この萩は、西行法師が東北へ訪れたときに、青蓮院の慈円門主に献上しようと持ち帰ってきたと伝えられている御手植えの萩の子孫です。 

 堂内には、西行法師僧像、頓阿法師僧像、上冷泉家歴代尊霊位、天津禅師霊位をお祀りしています。(非公開)

 また「不許葷肉入門内」という石碑が出入り門横に建っていますが、「葷(くん)」は、ニンニク、ネギ、ニラなどを指します。したがって、「葷、肉の入門を許さず」という意味です。ところによっては、酒を加えてあるところもあります。

 つまり修行に必要のないものは、持ち込みを禁止する土地であるということです。

 

◆境内拝観自由(堂内非公開)

◆時間 9時~16時

隣接するお茶室「浄妙庵・皆如庵(花輪様)」と雙林寺とは別々で、一切関係ありません。

<参考資料>

  • 安永九(1780)年「都名所図会」
  • 寛政11(1799)年「都林泉名勝図会」
  • 元治元(1864)年「花洛名勝図会」
  • 大正5(1916)年「京都坊目誌」
  • 雙林寺蔵「境内図」

<参考>

 明治に入り円山公園造設にあたり、この図会にありますように、現在の円山音楽堂から東側一帯の境内地を上地し国有化されましたが、雙林寺本堂と、花月庵は境内地として戻されました。

 当時の雙林寺境内地は、「京都市名勝円山公園保存管理計画第2章」に掲載される図面や「双林寺并公園地実測600分の1地図」「明治19年京都府告226号」などに記されています。

 また、円山公園造設計画から現在までの沿革については、京都市のホームページより知ることができます。


芭蕉翁仮名の碑

 花月庵手前の東側、雙林寺墓地への石段右横に、芭蕉の仮名碑(高さ1.2m・幅45cm)があります。芭蕉の門人である各務支考が、芭蕉の17回忌にあたる宝永7年(1710)3月12日に建立したもので、漢字かな混じり文で刻まれていることから、本邦初のかな碑です。

 建立から毎年3月12日には、石碑に刻まれている文字の墨を入れ直し供養するという「墨直会」が全国の社中が交替で執行の当番をし、開催されていました。

 東京深川にある臨川寺には美濃派の俳人、神谷玄武が、また愛媛県松山市円満寺には、支考の門人、臥牛洞狂平が建てたという、これを写した石碑があります。

<表面>

我が師伊賀の国に生まれて承応の頃より藤堂の家につかふ。その先は桃地の党とかや。今の氏は松尾なりけり。年また四十の老をまたず、武陵の深川に世を遁れて、世に芭蕉の翁とは人のもてはやしたる名なるべし。道はつとめて今日の変化をしり、俳諧は遊びて行脚の便りを求むというべし。されば松嶋は明けぼのの花に笑ひ、象潟(きさがた)はゆふべの雨に泣くとこそ。富士よし野の名に対して「われに一字の作なし」とは、古をつたへいまをしふるの辞(ことば)にぞ。漂泊すでに二十(はた)とせの秋暮れて難波の浦に世をみはてけん。其頃は神無月の中の二日なりけり。さるを湖水のほとりにその魂をとめて、かの木曽寺の苔の下に千歳の名は朽ちざらまし。東華坊ここに此碑を造る事は頓阿西行に法筵を結びて、道に七字の心を伝ふべきとなり。

 

あづさ弓 武さしの国の 名にしあふ 世に墨染の 先にたつ

人にあらずに ありし世の 言の葉はみな 声ありて その玉川の

みなかみの 水のこころぞ 汲てしる 六すじ五すじ たてよこに

流れてすえば ふか川や この世を露の おきてねて その陰たのむ

その葉だに いつ秋風の やぶりけむ その名ばかりに とささをきぬ

春をかがみの 人も見ぬ 身を難波津の 花とさく はなの鏡に

夢ぞ覚(さめ)ぬる

 

<裏面>

 維石不言(このいしいわず)  謎文以伝(なぞぶんもってつたふ)

芭蕉の弟子、各務支考の獅子門美濃派の歴代の俳祖の碑

  • 梅花仏 (二世)…各務支考のこと 享和16年(1731)没
  • かなの碑    …本邦最初の仮名の碑 宝永7年(1710)建立
  • 蘆元法師(三世)…延享4年(1749)没
  • 帰童庵 (四世)…安永9年(1780)81歳没
  • 朧庵  (五世)…天明6年(1786)61歳没
  • 森々庵主(六世)…寛政10年(1798)67歳没
  • 雨岡  (七世)…左柳ともいう

◆拝観自由

◆時間 9時~16時