この御像は、もともとは京都二条城北側に所在した少年サポートセンターにお祀りされていたものです。
そもそも、少年サポートセンターとは、昭和28年京都市警察本部が全国初の「少年補導所」を設置したことにはじまります。警察は犯罪の取り締まりという状況が定着していますが、「取り締まり」ではなく、「補導」という意味合いを強く出すため、警察本部の建物とは別に、少し離れた二条城北側に所在したのです。
当時は、別荘風の木造二階建ての建物で、庭も広く、大きな講堂のような部屋もありました。少年と対話するにあたっては、四角のテーブルよりも丸いテーブルの方が少年と話し易いであろうとの配慮から、丸テーブルが使用されていました。その丸テーブルは、真如堂内吉祥院に引き取られ現存しています(非公開)。
我れ生まれてより以来、(このかた)
口に麤言なく、 (そごん・荒々しい言葉)
手に笞罰せず。 (ちばつ・むちで打って罰する)
今我が同法、 (私と同じように仏法を学んでいる者)
童子 (僧侶の見習・少年)
を打たずんば、 (打たない)
我がために大恩なり。 (そのことが、私と志を同じくすること。私に対する大きな恩)
努力(つと)めよ、努力めよ。
少年補導所初代所長である本庄氏は、天台宗を開かれた伝教大師の遺言にあるこの一節こそ、少年を補導する精神であると感銘を受けられました。
そして、昭和30年6月、本庄氏が警察庁長官表彰を受章されたことを記念にその報奨金を以て、「少年」ということで、童形像を作られました。また、当時、保護司をしておられた吉祥院ご住職は、童形像の開眼法要(像に魂を入れる仏教の儀式)をお勤めされました。
童形像は、比叡山の根本中堂の前庭にあるお姿を基とされ、胸元に、心と体の病を治して頂けるという薬師如来様の小像を抱いたお姿になっており、本庄氏の少年に対する心が伺えます。
毎年8月18日は、伝教大師のご生誕日で、童形像前にて天台宗京都教区布教師会による宗祖降誕会法要が営まれるようになりました。昭和40年代までは、布教師のみならず、天台宗京都教区宗務所長をはじめ、多くの京都教区僧侶が参列し、法要後は講堂で布教師が法話をされ、加えて、少年補導所長も、仕事の内容を講話され、僧侶が拝聴していました。
その後、時代の変化とともに様子が変わり、政教分離の立場から、昭和50年からは、布教師会役員4、5名が自主的に赴き、庭先を借り、勤行をさせて頂くという立場を取るようになりました。その際、少年サポートセンター職員が参列されることもありました。さらには、近隣の他宗の僧侶がこの話に感銘され、法要当日に抹茶をお供えされたりもしていました。
しかし、平成22年、少年サポートセンターが京都市東山区に移設されことになり、御縁あって、伝教大師が開かれた寺、雙林寺に来られることになりました。
現在でも毎年8月18日には、この尊像前にて天台宗京都教区布教師会による宗祖降誕会法要が引き続き営まれています。
(天台宗京都教区布教師会発行「法味34号」より引用、加筆修正)
ここに安置する地蔵菩薩さまは、明治5年8月、追善のため、法華塚を修繕したときに地中より出現され、その時の住職亮観和尚の夢枕にお出ましになり、何病にも持病としても念ずれば利益更に疑いなく多くの人が利益を受けることになるであろう、とのお告げをされました。
またある時、ひとりの地蔵信仰者が通りがかりました。長年持病に悩まされていたその人は、平癒を一心に祈願しお願いしたところ、不思議に数日後、全快しました。そして、その霊験に非常に感謝されるとともに、報恩のため、現在のお堂を建立されました。
以後、一切の病患に霊験がありご利益がある、持病平癒地蔵尊として、今日も多くの人々の信仰を集め、参詣の人たちが後を絶ちません。
毎月24日は地蔵菩薩さまのご縁日です。午前10時より御宝前に於いて、お勤めしておりますので、御一緒に「般若心経」をお唱えしましょう。
どうぞ、お参りくださいませ。
本堂前に残るこの小さな塚は、皇女綾雲(あやぐも)女王が、父、鳥羽天皇の菩提を弔うために建立された法華塔の跡地です。
法華塔には、天皇御自ら書写された金字法華経8巻を納められましたが、応仁の乱により宸筆法華経と共に罹災してしまったため、その灰土を集めて一塊の塚としたと伝えられています。
◇碑文◇ 鳥羽天皇皇女綾雲尼公 御菩提御宸筆金字法華経ヲ埋蔵シ給フ処ナリ
本堂西側に位置するささやかな3塔は、向かって左から、頓阿法師、西行法師、平康頼の供養塔です。
いずれも当寺にゆかりの深い人物であるところから、延宝時代に好事家によって建てられたものなのでしょう。
かつて境内には、頓阿法師、平康頼の墓があったとされていますが、場所は定かではありません。
◇平 康頼(12世紀後半~13世紀前半)◇
治承元年(1177)、平家打倒を企てて失敗し、少将藤原成経、法勝寺執事俊寛と共に鬼界が島に流された。翌年、赦免され帰洛し、雙林寺山荘(現在の東大谷祖廟のあたりと推定される)に隠棲した。宝物集は、晩年、そこで著された。
「康頼入道は東山双林寺にわが山荘ありければ、それに落ちついて先おもひつづけけり。
~ふる里の軒の板間に苔むして おもひしほどは漏らぬ月かな~
やがてそこに籠居して、うかりし昔を思ひつづけ、宝物集という物語を書けるとぞ聞こえし」(平家物語巻三・将都帰)
◇頓阿法師(1289~1372)◇
南北朝時代の和歌四天王の一人にして僧侶。西行法師を慕いこの地を訪れ、草庵を結ぶ。これにちなんで名づけられた「草庵集」は有名。西行の忌日には桜の花を仏前に供え回向したという。
「西行上人住み侍ける双林寺といふ所に庵を結びてよめる」
~跡しめて見ぬ世の春をしのぶかな その如月の花の下陰~
(草庵集巻九、雑歌)
金玉山と号する天台宗の寺である。
延暦年間(782~805)に尾張連定鑑(おわりのむらじじょうかん)が伝教大師(最澄(さいちょう))を開基に招じて創建したのが当寺の起こりと伝える。その後、鳥羽天皇の皇女入寺などもあって栄え、広い境内と多くの塔頭子院(たっちゅうしいん)を有したが、中世になって衰微するに至った。応永年間(1394~1427)に国阿上人(こくあしょうにん)が再興し、時宗一派の本山となり、東山道場と称したが、応仁の乱後再び衰え、明治維新のとき天台宗に改まった。さらに、明治の中頃、円山公園が設置された際に多くの寺地を失い、現在は本堂の一宇にその名残をとどめるのみである。
本堂に安置する木造薬師如来坐像(重要文化財)は平安時代の翻波式衣文(えもん)がよく表現されている。
この地には、かつて、西行(さいぎょう)、平康頼(たいらのやすより)、頓阿(とんあ)などが庵住したと伝え、本堂の南西地には今も西行堂が建つ。また、豊臣秀吉もここで花見の宴を催したといわれる。
京都市
京都には、寺院・神社・旧跡等数多くの史跡名勝があります。
それらの由来、沿革、みどころ等を説明する将棋の駒をかたどった立て看板のことです。
正式名称は名所説明立札といいます。