楠大弁財天

 ここにお祀りする楠大弁財尊天は、京都市縄手通り三条下がる東入る芳田亀吉氏の信仰されていた弁財天です。
 寺伝によると南北両朝時代、新田義貞の軍兵が当寺に駐屯していたとき、足利尊氏軍の攻撃に遭い全山が焼尽してしまいました。また、応仁の乱においても、再び雙林寺は焼失してしまいます。しかし、この楠樹だけは、その二度にもわたる大火災から不思議にも難を逃れました。
 その戦禍を奇跡的に逃れた楠樹も、老齢になったため、枯れ死を助け風致を保存するために、昭和2年5月、信仰する有志が、周囲を石垣で囲み御神木として、この弁財天を安置することにしました。

 長寿幸福の樹齢は私たちに健康と長寿を与えるとともに、弁財天の豊かなご利益を十方に施していただけることになります。

昭和2年11月7日午前1時遷座
昭和2年11月7日午前1時遷座

 その後、鳥居などが取り壊され無残な姿となり、お社だけがひっそりとおまつりされていましたところ、弁財天を信仰する平成有志の方々により再興されることになり、平成16年6月19日(己巳)に新たなご神体が奉安されました。

 それに伴い厳かに開眼法要が営まれました。開眼法要というのは、仏さまの魂をお招きし、そのお像に宿っていただく法要のことです。

 


大雅堂旧址

 円山音楽堂の西南角にあり、現在「和光同塵」「大雅堂旧址」としるした石碑が建っています。ここは近世画の名手、池大雅(いけのたいが)の死後、その門弟たちによって建てられた大雅堂の旧址です。

 池大雅は、享保8年(1723)京都洛北の深泥が池(みどろがいけ)の農家に生まれました。23歳の頃には、八坂神社の境内で参詣人に画扇を売る大道絵師になっていました。時を同じくして境内に百合という女性が茶店を出して、短冊などに歌を書いて売っていたのですが、こちらの方ばかりが繁盛し、大雅の画はさっぱり売れませんでした。

 気の毒に思った百合が絵を2、3枚買い求めたところ、あまりにも立派な筆使いに驚き、その才能を見込んで、娘、玉瀾(ぎょくらん)の婿にし、付近の下河原鳥居前(現在の畑中旅館のあたりと推定される)に住まわせることにしました。その生活を営んだ住まいを葛覃居(かったんきょ)と称します。八畳ばかりの座敷に取り次ぎがあるだけの狭い家でありましたが、狭いながらも楽しい我が家であったようです。子供に恵まれない二人は、大雅が三味線を弾いて唄うと、玉瀾は琴を弾じて合奏し、ともに仲良く楽しんでいたということです。

 大雅は、安永5年(1776)54歳で没し、京都西陣の浄光寺に葬られ、妻、玉瀾もその8年後、天明4年(1784)57歳で没しました。

 大雅堂は、玉瀾の死後まもなく門弟たちが大雅の遺品を整理し、その資金を元にして旧居に近い雙林寺境内に建てられました。(現在は円山公園です)私設美術館とでもいったところでしょうか。

 建物は二階建て、階上、階下とも六畳の広さで、別室に金銅製の観音像が安置されていました。しかしながら、明治36年(1903)惜しまれながら取り壊されてしまいました。

拾遺都名所図会より
拾遺都名所図会より

駒札

 ここに江戸中期の画家池大雅(いけのたいが)を記念する大雅堂があった。

 大雅は享保8年(1723)京都に生れ、若くから絵に志し、生れつきの天真らんまんな性格と相まって独自の文人画を大成した。また書も独特の趣(おもむき)がある。妻も玉瀾(ぎょくらん)と号する画家で、この近くに草庵を結んで夫妻ともに画業にはげんだ。この地はもと雙林寺(そうりんじ)の境内で、住職謙阿もよく大雅の面倒をみ、大雅はここに筵(むしろ)をしいて絵を売ったという。

 大雅・玉瀾の没後、門人相まって、木下長嘯子(ちょうちょうし)の歌仙(かせん)堂の遺構を大雅ゆかりのこの地に移して遺品や書画をあつめ、子供のなかった大雅の遺風を伝えるため大雅堂とした。

 しかし明治36年公園拡張のため取りこわされ石碑を残すのみとなった。遺品もまた散失したが、大雅堂に安置されていた大雅念持の観音像や「大雅堂」の扁額等は池大雅美術館(西京区松尾)に保存されている。東山区鷲尾町

 

※現在駒札は設置されていません。また、池大雅美術館は閉館しました。


雙林寺墓地

花月庵出入り口の名門をくぐり、左手東側に墓地入り口の石段があります。

知人文人のほとんどの墓は無縁となり、東南角に整理された状態になっています。

故人を偲ぶひとたちのお花がいつも供えられています。

  1. 義  亮…江戸後期の画僧。月峰の子。
  2. 河村公成…江戸後期の俳人。
  3. 清  亮…江戸後期の画僧。月峰の子。
  4. 荘門霞亭…幕末期の儒者。
  5. 月  峰…江戸中期の画僧
  6. 渡辺南岳…江戸後期の画僧。円山応挙の門弟。
  7. 亀田窮楽…江戸中期の書家。

眞葛が原

「真葛ケ原」とは、現在の円山公園を中心として、北は、知恩院三門前より南は雙林寺におよぶ山麓一帯の旧称です。むかしは、真葛やすすき、茅、萩などが一面に広がる原野でした。鎌倉初期、天台座主慈円僧正がその景観を望んで、

 

~わが恋は松を時雨の染めかねて真葛ケ原に風さわぐなり~

 

と詠いました。

 それから、一躍和歌の名所となり多くの歌に詠われることになります。

 江戸時代はもっぱら六阿弥など酒食をもてなす水茶屋が設けられ、席貸がはじまりました。春秋の花見時には文人酔客が多数訪れ、酒を飲んで花の美を賞するところとなりました。

 また、六阿弥では、それぞれの庭園美を競い、書画の展観、庭での蹴鞠とさまざまな催し物が開催され賑わいました。江戸時代の末には、桜の木が植えられ夜にはかがり火が焚かれ、夜桜見物の花見客でにぎわいました。円山公園中央にある枝垂桜が有名となり、京都の桜の象徴にもいわれるようになったのはこの頃からです。

円山公園

  明治6年1月15日、太政官の布達により、公園地に指定されました。明治25年度からは第1期拡張および整備事業が開始されました。池を掘り、樹木を植栽し、公園の原形ができあがりました。

 そして、第2期拡張工事を経て大正2年、東部一帯の改良工事に着手します。この工事は、平安神宮神苑などを作り出した造園家の小川治兵衛の手によって行われ、最終的に中央に池を配した回遊式の日本庭園となりました。

 その後、大正3年3月に現在の円山公園が完成しました。昭和3年、近代的公園施設として安田耕之助などの寄付や雙林寺の上地により音楽堂が建設されましたが、真葛ケ原の環境や雰囲気、東山三十六峰にも数えられている雙林寺山そのものを破壊することになりました。